ちょこっと まめ知識

知っておくとためになる、少し役に立つ雑学集

オーストラリアのお菓子な話 前編

 今回は、諸説ありながらも” 一応はオーストラリア発祥”といわれるお菓子全13種類を、その由来やエピソードと共に紹介する。”オーストラリアの甘くない歴史”を甘いお菓子と一緒に辿ってみよう。
まずは前編6種類を紹介だ。


日本人にもお馴染み
アンザックビスケット - Anzac Biscuits

 オーストラリアのお菓子といえば、まず最初に思い浮かぶ、見た目も味わいも素朴なアンザック・ビスケット(Anzac Biscuits)。 毎年4月25日のアンザック・デーの頃になると、青いパッケージがスーパーなどの棚一角を占める。カリッとした歯ごたえで、噛むほどにオーツやココナッツの香ばしさが口全体に広がってくる。材料には卵を使用せず、押し麦、小麦粉、ゴールデンシロップ、溶かしバターなどを使用し、栄養価が高く、しかも傷みにくい工夫がされている。ユニビック(UNIBIC)社製のものがスーパーなどで買えるほか、手作りするのが一般的だ。
その由来は、第一次世界大戦(1914-18年)に参戦したアンザック(ANZAC、 Australian and New Zealand Army Corps)兵士の妻や恋人達が、腹持ちが良くて傷みにくく、しかも輸送でも崩れにくい食糧として手作りし、ビリー(Billy、アルミ製のアウトドア用蓋付き鍋。これで作るのが有名なビリー・ティー)に入れて戦場に送ったとされている。当初は甘味がなく、アンザック・タイル(Anzac Tiles)、またはアンザック・ウェィファー(Anzac Wafers)と呼ばれて、パンの代用品として兵士達に配給されていた。オリジナルはスコットランド移民によって持ち込まれたスコティッシュ・ビスケットということだ。

 国内最初のレシピは、1917年出版のThe War Chest Cookery Bookの中で“ケーキ”として紹介されたもの。現在のアンザック・ビスケットに近いものは同書内で“押し麦ビスケット(Rolled Oats Biscuits)”または“兵隊のビスケット(Solders’ Biscuits)”という名前で紹介されていた。その後、1921年出版のSt Andrew’s Cookery Bookで紹介されたAnzac Crispiesが現在のものに近いとされており、アンザック・ビスケットと呼ばれるようになるのは、有名なガリポリの戦い(ANZAC Gallipoli Campaign、1915年-16年)以降となる。
1994年、アンザック・ビスケットの正統なレシピと形が法律で保護されることになり、アンザック・クッキーとしたり、アレンジを加えたものをアンザック・ビスケットとは呼べないことになった。そのため、それまでアンザック・ビスケットを製造・販売していたサンドイッチのサブウェイ(Subway)は、採算が合わないことから販売を中止したというエピソードがある。


発祥には諸説ある
ラミントン - Lamington

 日本ではなかなか見かけない風情のラミントン(Lamington)は、バニラスポンジをチョコレートソースでコーティングし、ココナッツファインをまぶしたケーキ。スポンジの間にジャムやクリームをサンドしたものもある。ココナッツの風味といいスポンジの甘さといい、まさに見たままの味といったところか。
レシピが初めて紹介されたのは、1902年、クイーンズランド州の新聞紙上。初期のレシピにはココナッツはついていなかったとされており、当時は”ラミントン募金活動(Lamington Drive)”と呼ばれ、主に学校や教会の寄付集めに作り売られていた。その名前は、クイーンズランド州のラミントン総督(1896-1901年)に由来するもので、発明したのは総督付きのフランス人シェフ、ガラン(Armand Galland)ということで一致しているが、詳細については諸説ある。

 まずは、総督官邸の厨房にあった大きなケーキを食べ易くするために同シェフが小さく切り分け、チョコレートをディップし、ココナッツをまぶしたというもの。ふたつめは、1901年にオーストラリア連邦誕生のお祝いの際、官邸を訪れた突然の来客に、ガランシェフが残り物のバニラスポンジを利用して即興で作ったというもの。または、総督と側近達がクイーンズランド州西部のトゥーンバ(Toowoonba)に避暑で訪れていた際に作られ、来客に振舞われたというもの。更には、ガランシェフがチョコレートの入った皿にうっかりスポンジケーキを落としてしまい慌てていると、そのままでは食べにくいからココナッツをまぶしてはどうかと、総督に提案されたというものだ。
ただし、総督本人は甘いものが好きではなかったらしい。また、ココナッツは当時のヨーロッパ系のデザートには一般的ではなかったが、ガランシェフの妻がタヒチ生まれだったことから使用されるようになったともいわれている。

 近年になって、オークランド大学の専門家が、ニュージーランドの水彩画家JRスマイス(Smythe)の1888年の作品に食べかけのラミントンらしきものが描かれており、そのため、ニュージーランドのウェリントン(Wellington)というお菓子がオリジナルである、との説を発表している。


ときには論争の種にも
パヴロヴァ - Pavlova

 パヴロヴァ(Pavlova)は、砂糖を加えたメレンゲ(卵の白身を泡立てたもの)を低温のオーブンで焼き、ホイップクリームとフルーツで飾ったもの。表面はカリッと、中はフワッとした食感が人気で、クリスマスの食卓には欠かせないデザートだ。その由来は、ロシアのバレリーナ、アンナ・パヴロヴァ(Anna Pavlova、1881-1931年)が1926年にオーストラリア(29年にも来豪)とニュージーランドで公演した時に、彼女の容姿と衣装の色からヒントを得て考案されたものだといわれている。ところが、その出自を巡ってオーストラリアとニュージーランド間で、論争がありいまだに結論が出ていない。

 ニュージーランド側は、1926年にウェリントン(Wellington)にあるホテルのシェフが、彼女の公演時の衣装からヒントを得たものとしている。しかし、もとのレシピはニュージーランドのメレンゲ・ケーキ(Meringue Cake)というデザートで、“パヴロヴァ・ケーキ”という名前のデザートはサイズも小ぶりで別物とのこと。ただ、1935年にパヴロヴァの型崩れ防止用リングの広告が見付かっており、この時点で既にニュージーランドでは、パヴロヴァのレシピが一般的に知られていたと思われる。

 一方オーストラリアでは、1926年に出版された料理本に既に”フルーツ詰めメレンゲ(Meringue with Fruit Filling)”というレシピがあり、これをヒントに1935年、パースのシェフがアフタヌーン・ティー向けに“アンナ・パブロヴァのごとく軽いデザート”として発明したものとされている。1937年のAustralian Women’s Weekly誌には“パブロヴァ・スイート・ケーキ(Pavlova Sweet Cake)”のレシピが紹介されている。


レシピが危機に?
チョコレート・クラックルズ - Chocolate Crackles

 もうひとつ、ちょっとした騒ぎがあったのが、子供絡みのイベントでは定番のチョコレート・クラックルズ(Chocolate Crackles)。ライス・バブルとココナッツファインをチョコレート味のオイルで固めたもの。カリカリサクサクとしていて、日本ではロングセラー商品の” チョコフレーク”に似ている。
子供でも簡単に作ることができバリエーションの幅も広いことから、材料のコファ(Copha、1933年にオーストラリアで発売された、植物性油脂を原料としたショートニング)の広告にそのレシピが紹介されて以来、幅広い年齢のオージーに絶大な人気を誇ってきた。
レシピが最初に紹介されたのは、1937年のAustralian Women’s Weekly誌上のコファの広告内。コファはチョコレート・クラックルズ作りには、ライス・バブルと共に欠かせない材料で、しかも代用がきかないため、チョコレート・クラックルズの人気はそのままコファの売り上げに繋がっているともいえる。

 1940年代に料理本にレシピが紹介されているが、1953年にケロッグ(Kellogg’s)社が“チョコレート・クラックルズ”という名前を朝食シリアルとして商標登録。2003年には同社のライス・バブルのパッケージに長年印刷されていたレシピも登録申請されたことから、“自由にレシピが使えなくなる”とオーストラリア国内でちょっとした騒ぎになった。ライス・バブルの類似品対策だったと思われるが、結局、申請は却下されている。


オージーの名前が付いたものも
ピーチ・メルバ - Peach Melba

 さて、今でこそオーストラリア出身の有名人は多いが、19世紀にはイギリスのデザートの名前になるほどの人気オペラ歌手がいた。ピーチ・メルバ(Peach Melba、1861-1931年)は、バニラアイスクリームの上に桃のシロップ浸けを乗せ、ラズベリーソースをかけたもので、メルボルン出身の世界的なソプラノ歌手ネリー・メルバ(Nellie Melba)にちなんでつけられたデザート。
1890年代初頭、ロンドン郊外で公演した際のサヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)でのディナーパーティーで、現代フランス料理の基礎を築いたといわれるフランス人シェフ、オーギュスト・エスコフィエ(Auguste Escoffier)が、白鳥の氷彫刻に甘い桃とバニラアイスを盛った銀製皿を乗せ、スパムシュガーで飾って供したとされている。1899年、同シェフがカールトン・ホテル(Carlton Hotel)に移った後、ラズベリーピューレをかけて簡素化すると同時に、ピーチ・メルバと命名。また、現在では量販されているラスクのようなメルバ・トースト(Melba Toast)もエスコフィエ・シェフによるものだ。サヴォイ・ホテル滞在中の1897年、健康とスタイルに気を使っていたメルバが、出されたトーストが厚切りだったことに不満を漏らしたため、同シェフが薄切りにして作り直したのが始まりといわれている。1932年からは、オールド・ロンドン(Old London)社製のメルバ・トーストが市販されている。


ゴールドラッシュを物語る
ロッキーロード - Rocky Road

 18世紀のヨーロッパ人の入植に始まり、広大な砂漠を舞台にした植民地開拓時代、19世紀半ばのゴールドラッシュを経験したオーストラリアならではのスイーツもある。ロッキーロード(Rocky Road)は、マシュマロ、ナッツ、砂糖浸けチェリー、ターキッシュデライトなどを混ぜて固めたチョコレート菓子。初めて食べると、あまりの甘さに衝撃を受けるかもしれない。
1853年、当時ヨーロッパから輸入されながらも、形が崩れるなどして傷んでしまったお菓子の再利用方法として発明されたといわれる。ビクトリア北部の金鉱で働く鉱夫を相手に、安物のチョコレートに傷んだお菓子やナッツ類を混ぜて販売された。 “ロッキー・ロード”には” 金鉱への険しい道のり” といった意味が含まれているらしい。イギリス、アメリカにも同名のお菓子があるが、内容が若干異なる。特にアメリカではアイスクリームのフレーバーの方が一般的。


参考ウェブサイト: W: https://slll.cass.anu.edu.au/centres/andc, W: https://anzacday.org.au/, W: http://www.australian-information-stories.com/, W: http://australianlamingtons.blogspot.com/, W: https://balfours.com.au/, W: https://www.cooksinfo.com/, W: https://www.food.com/, W: https://www.glamadelaide.com.au/, W: http://www.heatherbraeshortbreads.com.au/, W: https://ifood.tv/, W: https://www.kelloggs.com.au/en_AU/home.html

(2015年1月号 Dengon Net)