慶応義塾大学で白人女性として初めて学位を取得、オックスフォード大学ではMBAを取得というプロフィールを読んで、芸者のイメージとは程遠い人物像を描いていた。ところが、Emailでのやりとり、電話でのインタビューにも気軽に応じてくれ、丁寧に日本語を綴る語り口に、お座敷での姿が浮かび上がった。
冒険好きの子供時代
今年2月、シドニーで花柳界についての講演会を行った紗幸さんの出身地は、メルボルン。400年の花柳界史上、初めて誕生した外国人芸者として、2007年12月にお披露目してから1年余り。なぜ日本に興味を持ち、特殊な世界に飛び込んだのだろう。
「私の通っていた中学校で、交換留学生の問い合わせを見て応募しました。15歳で、日本のことは何も知らなかったのですが、好奇心旺盛な子供だったので。勉強好きではなく、1年間学校を休めるとも思ったので(笑)」。と茶目っ気たっぷりに話す。
交換留学生として、日本で過ごした1年は、本当に楽しいものだったと振り返る。「ホームステイした家族、学校の友達もみんな優しく、北海道から九州まで旅行に行ったり、イベントやお祭りなどあちこち連れて行ってもらいました。それがとても楽しくて、高校生になってからも、行ったり来たりしていました」。
その後、いくつか大学を受験し、慶応義塾大学にも合格。
「貴重な体験になるから、日本の大学に行った方がいいと周囲に勧められ、白人女性として初めて、慶応義塾大学に入学しました」。
人間科学を専攻した大学時代は、一人住まいで、ごく普通の大学生活を送ったという紗幸さん。「卒業後、日本企業に就職し、2年間働きました。良い経験でしたが、会社勤めは自分に合わないと気付き、オックスフォード大学のMBAで、社会人類学を専攻しました」。
やはり、学問好きなのでは? という質問に、「社会人類学は、社会の一員として実際に経験したことを学ぶフィールドワークが主で、それが合っていたのです」。
花柳界が門戸を開いてくれた
「卒業後、仕事として、BBCやNHKなどのテレビ番組やフィルムの制作をしました。その一環として、芸者を始めてみたのですが、簡単に芸を身に付けられるわけではありません。毎日置屋に通って、着付けの習得。歩き方や座り方、戸の開け閉めなどの立ち振る舞いを、身体に染み込むまで習います。昼間のお稽古事は、笛や太鼓の練習。1年目の後半は、料亭の仲居として台所に入り、料理の運び方や出し方の修行をして、実際にお座敷に上がった時、料理の出てくるタイミングを計れるようになります」。
何もわからないまま、無我夢中でやってきた1年だと言う。「三社祭りで、初めて芸者姿で歩いた時は緊張しましたが、浅草の人達に受け容れてもらえたと安心しました」。そして「1年の修行では本物にはなれません。これからも、フィールドワークとしてだけでなく、もっと芸を身に付けてがんばっていきたい」と、決意を新たにする。
これまでにない試み
自分の強みを最大限に生かして、花柳界に貢献する、新しい企画も始めたいとも語る。「外国人のお客様、料亭に来たことのない人でも、簡単に来られるようにしたい。今も、お座敷の空いた時間を利用して、修学旅行生に生菓子とお茶を楽しんでいただいています。歌や踊りを見せたり、日本の楽器を弾いてもらったり」。
「1920~1930年代、芸者衆は現在のタレント的な身近な存在として、大手化粧品会社のモデルにもなっていました。これからの芸者は、もっとメディアなどを使って、表に出て行くようになればいいなぁと思っています。料亭は別世界というイメージではなく、日本の伝統芸能が脈々と息づく世界だと知ってほしい」。英語を活かして海外にも出て行きたいと語ります。
「オーストラリアにも若い芸者衆を連れて行きたいです。高校も訪問したいです。まずスポンサー探しから始めるつもりです。この記事をご覧になった日系企業の方にもお願いしたいです」。日本の伝統芸能を体得し、その美しさを世界に伝えたいという意気込みが伝わってきます。
そしてまた、「今の東京は季節感や日本らしさが薄れてきている」という危機感を持っています。「日本は経済大国なのだから、美しい建物や昔のものを残すことに資金を投入するべきです。建築物でも、古いものを壊して、どんどん新しくしています。メルボルンのように、古くても良いものは残していく、そこに文化が息づいています。個人宅の床の間や縁側も残してほしいです。個人の努力だけでなく、条例を整えて、補助金などの公的な支援も必要です」。
失われつつある日本の大事な心に気付かされたインタビューだった。